きーえるひこーきぐもー

先日やる夫スレでアニメ紹介の記事の中にAIR劇場版があった
http://oyoguyaruo.blog72.fc2.com/blog-entry-3445.html

4月に出崎統監督も亡くなったし、川上とも子も今月亡くなった。

昨年今監督がなくなったときのように追悼の意味を兼ねてAIRの劇場版みてみるかー  とようやく未開封だったDVDを開けてみた。

すると なるほど、オーディオコメンタリでひたすら出崎監督と脚本の中村誠氏がたたかれたことをひたすら話しているという…
TV版で物語をなぞって作った以上、総集編にしないのなら確かにこんな形で作るのが合理的だし有意義だ。何より私も「劇場でゲラゲラ笑っていた」

笑ってしまうのが、演出の技法が全て「ああ、出崎監督だからな!」といわんばかりに、止め絵に三回パンに入射光にあふれた画面に吐瀉物に透過光。
そしてとどめに夏だったはずなのに最後にはなぜか季節が秋にかわって海辺の町からコートをはおって線路を歩いて去っていく往人。
なるほど、「これはあしたのジョーの世界の中にあるAIR」と納得してみるべきなんだね!とかいいながら帰途に就いた覚えがある。

CLANNADの劇場版のときにも同様のことがおこった。
なぜ世界がどうみても昭和40年代なんだろう?ガラス戸なんて今どきあるのか?親父が土下座して謝る超展開ってどうしてこうなった???

結局、この2作はいつもの出崎監督が「アニメ映画として面白いものをつくる」というサービス精神の賜物として出来上がったもので、原作厨の為に作られているわけではないわけである。単に原作厨しか見に行かない作品でこんなことが起きたからひと騒動おきたのであって、マーケティングの失敗であろう。
つまり原作厨に満足してもらうことが目的なら出崎監督を選んではいけないのである。出崎監督の原作クラッシャーぶりは元々有名なのだから。
ノイタミナ枠で放映した源氏物語千年紀 Genji(200901-03)の時も元は「あさきゆめみし」だったのにしっかり原作を引き上げられてしまった。
より女性が人間臭くなったのがよいところだけど、若紫がいつの間にか誘拐されてきたように見えますがこれはいいのか? とか。

絵柄が古いのもむしろ美点だろう。海辺の田舎町の鄙びた雰囲気と荒涼としたイメージ感を作りだすのに成功している。特に「夏」の描写にかけて、強い光線が感じられ原作の時には「暑い」という文字表現に頼り切っていたのが真実暑いことが分かりやすくなっている。
特にクソ暑いのにエアコンもない店で好物のラーメン定食にガッツク往人の食への貪欲さが分かりやすい。
ただ「食への執着」自体、高橋留美子作品がそうであるように昭和のイメージになってしまう。
考えてみれば普遍的な価値観というか、世代が共有する価値観が少なくなってきている世の中だから違和感をもつようになるのも仕方ないことなのか。