休暇中

たまにはこんな航空幕僚長の話。
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf
田母神航空幕僚長の論文が世間をにぎやかしていたが、「日本の過去の軍事行動は侵略でない」という論旨にもっていく為の論拠が実に貧弱であり、論文の論拠となる一次資料にも乏しい。どちらかというと意見表明であり私見なのだろう。
そういう意味ではこの役職についているものが政府見解と真っ向から勝負するようなものを述べるのはシビリアンコントロールから考えて問題だ。


大体中身がひどい。
張作霖爆殺と盧溝橋について陰謀説を唱えておきながら、明らかに日本の侵略である柳条湖事件に始まる満州事変については述べないのは意図的としか思えない。
満州において満州国成立後人口が増えたことを誇っているが、世界恐慌最中の日本からの移民が武装移民の形態をとりつつ満州の土地を収奪していた事実を無視してはならない。豊かになったから人口が増えたのではなく、多数の移民をつれてくることで人口が増えたのだ。満州事変から終戦までたった14年なのだから。
また、「侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない」という言葉には無理がある。
治安は満州国成立後、侵略を実施した関東軍が保障し馬賊の跳梁を鎮圧したことで良好となり移民が可能になったのである。
そもそも満州では既に満州族は絶対多数ではなく、華北以南からの漢人移民が既に多数を占めていた。そこに日本からの移民や間島に多い朝鮮族内蒙古モンゴル族が住み、さらにロシア革命から逃れてきた白系ロシア人ハルビン等に集住し民族が入り混じっているという、まさに後に満州国の掲げた五族協和のいうところの五族の坩堝状態が理由となって満州族による民族自決が成り立たなくなっていた。満州国関東軍の暴走を後に政府がその行動を追認した軍事行動により成立した国家である以上、まさに侵略の結果できあがった日本の保護国であり、決して満州族民族自決の発露によって出来上がった国家ではない。
朝鮮で植民地時代に人口が増えたのは事実である。治安維持は確かに日本統治下の方が優れていただろう。しかし 植民地統治が上手であった=侵略していない は文脈としておかしい。
満州と朝鮮の圧政を日本が解放したかのように彼はいうが実際は違う。
満州も朝鮮も圧政を強いていたのでなく全うに統治できていなかったのである。満州清朝末期から既に軍閥支配にあったが軍閥の抗争が続く以上内政は疎かであり、清朝の時代からなんら変わることなく農業以外の産業が発展していなかったのも仕方がなかった。朝鮮は李朝時代後期は産業の停滞が明らかであり鎖国を解いた後も既に明治維新を進捗させていた日本と宗主国清朝の狭間で軍事力はなきに等しく飢饉の頻発で治安は低下していた。
治安好転と資本投下により日本主導の下産業が発展したのは事実であるが日本は解放者ではない。


また、盧溝橋は日中戦争の発端であったが実際は当初重要視されていなかった。問題は発端が陰謀であったかどうかではない。なぜならこの事件そのものはすぐに沈静化したからだ。
問題は事変がその後拡大したことにある。前年に国共合作が成り、蒋介石が上海方面での塹壕戦により華中・華南での全面的主権回復を企図していたなどというのならば陰謀史観的であるがまだ主張に合理性はある。日中戦争直前の日本外交はむしろ中国全土での全面戦争を回避すべく宥和的であった。満州という局地戦ならばともかく中国全土を支配するだけの陸軍を保有していなかったのだから当然ではある。ただし宥和的外交はミュンヘン会談後のドイツのようによい結果を生まない。蒋介石も同様であった。
コミンテルン中国国民党に浸透し蒋介石に影響を与えていたのが原因というのは、結果的に現在中国を共産党が支配しているから遡って共産党が陰謀をしかけていたのが原因だといっているだけで、実際にはそんなものは問題ではない。中国国民党政府の当時の最大の同盟国はドイツである。ソ連からの援助が問題となったのは日中戦争が進展し、延安中心に共産党が広がり新疆からの補給が行われてるようになったからだ。1937年当時のソ連スターリンの粛清真っ只中で、赤軍でもトハチェフスキーらが処刑されていた頃である。
蒋介石の軍事顧問はドイツ国防軍そのものであり、第一次世界大戦の西方派が中心となって指導していたことを無視してはならない。塹壕戦を戦い抜いたドイツ軍だからこそ堅固なトーチカを構築し、クリークを利用した防御を考案していたのである。日本陸軍が上海で大勝したのは第一次世界大戦の欧州戦線を研究していた成果なのであろう。日本陸軍はロシアのブルシーロフ攻勢なみの浸透戦術で勝利したように見える。
一方で米国がフライングタイガースを開戦前に中国に義勇軍として送り、ソ連のスパイであったホワイト財務次官補の働きかけでハル・ノートが出されたことは事実である。ただし。ハル・ノートは作成経緯がどうあれ米国の外交として実際にF・ルーズベルト大統領やハル国務長官の意思で提示されたことに間違いない。ソ連が世界に共産主義を浸透させようとしていた事実があろうが米国政府がハル・ノートを提示したことに変わりない以上、議論の意味がない。

また、現実と大義名分を混同してはならない。日本は米英に対して開戦するならば資源の供給の観点から蘭領東インドインドネシア)の占領が必須であり、イギリスから制海権を奪う為にシンガポール攻略が必要であったのであり、東南アジアの民族解放の必要があって攻撃したわけではない。
日本は独力で亜細亜を制圧することで対米英戦に勝利することを企図したのであり、自存自衛の為の戦争を主張したのは既に対日石油輸出禁止や在外資産凍結等の開戦一歩手前の経済制裁を受けた上でのハル・ノートという外交的大幅譲歩を求められたからである。当時の日本の指導者だけでなく国民も確かにハル・ノートを受諾して中国撤兵を行うことをよしとしていなかっただろう。その亜細亜制圧の大義名分としたのが八紘一宇であり大東亜共栄圏である。日本の占領を経て戦後東南アジアで独立戦争の結果、各国が独立したことは事実だが、戦後しばらく東南アジアへの外遊で日本の首相が歓迎されていなかったことも事実である。独立できるという可能性を示したのが日本であってもそれを誇って正義の戦争とうたうのは間違いだろう。それと同時に太平洋戦争そのものを愚劣な戦争として貶めてもならない。米英に対して戦争に及んで問題であったのは敗戦した事である。捕虜の扱いの問題はBC級戦犯が裁かれたことで納得してもらうしかない。戦犯の中にも無実の人は多かったが、彼らは従容として刑に服している。
敗戦国として指導者が東京裁判で懲罰的な判決を受けたことを除いては、客観的にみて日本は敗戦したから領土削減と軍備制限を受けただけである。そして日清戦争以来戦争がない時期の方が少なかった日本人は軍備縮小を歓迎した。
自国防衛に軍備を制限することは経済合理性にもかなっていたから日本は高度成長期を迎えられたのだ。

太平洋戦争の遠因は第一次世界大戦日英同盟を破棄して四カ国条約と九カ国条約を結んだことであろう。太平洋の安定を求めて結んだはずの条約は、亜細亜の大国として日本が唯一存在する環境では、むしろ太平洋の不安定を生んだ。
日本の最大の仮想敵国が長らくロシア・中国であったのに米国が最大の仮想敵国に変わったのは、第一次世界大戦中にロシア革命でロシアがソ連に代わり、清朝中華民国に代わり統一性が損なわれ軍閥割拠の時代となり、亜細亜で一人日本が大国としてあったためである。

とりあえず前提条件としてもう少し歴史を知ってからものを言うべきは空幕長の方でもあるが、わかっていて欺瞞に満ちた文面を書いていることような部分も見られ好感が持てない。
こういう人物が制服組の高官であったことは組織の質を疑いたくなるというものだ。