鎌倉にて

 鎌倉にきた目的は鎌倉スレを眺めていたら最近行っていないことを思い出したから。
ちなみに鎌倉が世界遺産に選ばれなかったのは「武士の古都」を標榜しているのにその遺構がほとんどない為だと思っている。
鎌倉で観光にいくのは神社仏閣ばかりなのである。本来金沢の武家屋敷ぐらいのなにかがないとね。城跡があるわけでもないし。
唯一それに類するものがあるとすれば東勝寺跡の北条高時腹切りやぐらか。

では今回は戦いメインで鎌倉を巡ってみることにする。

1.和田塚
 和田合戦で敗れた和田義盛一族が葬られたとされる塚である。(明治25年に塚付近を掘った時に夥しい人骨が出土し、和田合戦の時のものとされて塚が建立されたことによる)
 鎌倉幕府では1199年の源頼朝の死後、有力御家人の勢力争いが起こった。二代将軍頼家の専横が原因とされるが、頼朝の死後三ヶ月にして十三人の合議制に移行したり、強権をもった鎌倉殿に対する有力御家人の巻き返しが起こった。その結果は鎌倉殿の暗殺を含む有力御家人の闘争であった。頼朝の死後一年で梶原景時の変で梶原景時一族が駿河で族滅され、1205年には畠山重忠の乱で畠山重忠親子が二俣川で誅殺された。幕府創立の功臣同士による闘争は更に激化し、1213年には侍所別当和田義盛と執権の北条義時の戦いが勃発し、和田合戦と呼ばれた。和田一族の攻撃で将軍実朝も頼朝の御影を祭った法華堂に籠るなど鎌倉全域で戦闘が行われ、二日間の戦闘の末和田一族は敗退し和田義盛の一族の大半が戦死した。その塚なのである。

2.鶴岡八幡宮
次に鎌倉駅に戻って鶴岡八幡宮へ歩く。ここでは1219年に源実朝が甥の公暁に暗殺された。大銀杏の下で暗殺されたとされており、数年前の台風で折れてしまったのだが、その木から生えた枝を移植して木を復活させようとしている。


3.法華堂周辺
その後は鶴岡八幡宮近くの名所を。まず直ぐ隣の大蔵幕府跡。何もない。さらに隣の法華堂は頼朝御影を祭った墓所だが、和田合戦で実朝が逃げ込んだ後、1247年の宝治合戦で三浦一族の大半が滅亡した場所でもある。
隣の丘には北条義時墓所がある。また、この墓所が現在残っているのは法華堂は幕末に蘭癖大名として有名だった島津重豪が始祖の島津忠久を顕彰する為に設けた為である。


ちなみに北条義時の墓の隣には大江広元の墓があり、これまた子孫の毛利家が幕末に建てたものである。

4.鎌倉宮
次に更に東に行って大塔宮護良親王を祭った鎌倉宮があるので参拝。行っただけで疲れたので写真だけとって撤退。

5.最後
本当は宇都宮辻子幕府跡や若宮大路幕府跡も見ておこうかと思ったが、本当に石碑しかないからなぁ…それでも大正時代の人は石碑を作ってくれただけ立派!
それだけ鎌倉には武士の古都であった史跡が残っていないのである。神社仏閣だらけになったのは江戸時代から観光地になってしまったからなのだけど。

最後に東勝寺の跡の北条高時腹切りやぐらに向かい、ふもとで写真をとって断念する。暑いっちゅーねん!

6.余禄
なんとかコンビニへ逃げ込んでガリガリくんを食べながら商店街を歩き、そのまま鎌倉駅についてソフトクリームを食べつつ横須賀線に乗って東京へ。そのまま18時過ぎに帰宅するが、
夜19:30になってから再稼働。御徒町秋葉原にいってコミケ8日目を堪能。