やる夫スレの名作が終了

namihei02011-02-22

日曜にやる夫スレの名作「やる夫が鎌倉幕府を〜」のシリーズが完結した。
足掛け3年近く連載された本作であるが、やる夫の歴史スレを作る人たちの苦悩は資料集めと毎週のスレ投下であることは明らかで、よくもまぁ仕事を抱えている人が作っているものだと感心することしきり。作者曰く、「参考文献とした本や論文は200以上で…」 よく古文の文面を訳しながら読むものだと感心する。

この「やる夫が鎌倉幕府を〜」は基本吾妻鏡に記載された平安末期の源平合戦である治承・寿永の乱から鎌倉幕府中盤の宗尊親王の将軍廃位までが、主要な物語となっているのだが、普通ならば平家物語太平記のように戦闘シーンで盛り上げれば好さそうなものを、人間ドラマとして描いていくことがこのシリーズの好感が持てるところだろう。

特に律令制度の崩壊に伴う自存自衛が必要となった地方において、武士が自立の為のシステムである幕府と将軍の存在のあり方というテーマを考えながら動いているのが面白い。
特に頼朝=故右大将没後の三浦義村が暗躍する時期がもっとも面白かった。梶原景時の変に始まる頼朝没後の御家人の闘争は最終的には外戚の北条氏の勝利となるのはわかっていても、滅ぶ者たちが何を考えて行動するか、これがこの時期の生き様もしくは死に様とでもいうのだろうか、そのドラマを楽しむものだろう。

実のところ幕府というシステムの敵は前政権である「朝廷」だけでなく旧来の大豪族や成長した御家人自身でもある。
恐ろしいことに、このシステムの最大の問題は定期的に調整可能な内乱を起こして大豪族から領地を巻き上げ、戦勝者に分配した上で敗残者にも救済措置をとるという循環がないと成り立たないことである。元寇で功績があっても恩賞とする土地を寸土も得られていなかったから行き詰ったというのはある意味正しく、ある意味正しくない。元寇がなくとも遠からずこの幕府は存続できなくなったのである。有力御家人であった、梶原・比企・畠山・和田・三浦・安達らは滅びこそしたが、連座して秩父党・鎌倉党・総州平氏などの大豪族連合もまた弱体化された。最後に突出して大きくなった北条氏から領地を巻き上げて分配しないとシステムは崩壊するのだから、鎌倉幕府というものは自滅へのトリガーが最初から用意されていたのだろう。

他に物語として面白いところは、2点
・幕府の成立と維持への葛藤
 鎌倉幕府はそもそもが将軍のもと、御家人の合議制(評定衆)をもって動かされており、官僚組織として侍所・政所・問注所があり執行されていた。
 北条氏が政権を掌握できたのは執権になったことでなく、評定衆がほとんど北条氏とその与党となったことによる。
 元々北条氏は身分が低く、血統の正当性については説得力がないため、実力での支配を余儀なくされていた。
 徳政を追求した泰時以降の執権の行動はともかく、徳政でもなんでもよいから目指すところは、
 「朝廷からも有力御家人の影響からも独立した幕府の確立」
であった。しかしこれは自己矛盾があった。幕府を運営するのはまた御家人であり、最大の御家人勢力=北条氏であり、さらに北条氏の得宗被官による政治に徐々に変化していった。幕府が有力豪族の連合体として成立した以上、北条氏以外の有力御家人から見限られた時点で幕府は御家人である武士から支持を失い存続意義を失う。

・置き文
物語の終点にあると思われる足利氏に伝わる八幡太郎義家の置き文の発動
「われ七代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし」
へどうつなげるか?
である。難太平記に記載されていた、この置き文は尊氏の祖父家時が7代にあたっていたが、自分の代で達成できないことを苦悩して「3世の孫までに」とさらに2代延長することを願って切腹したことで知られる。実際に尊氏が天下を取ったことから、後付けの正当性を示すためのものと考えられる。
面白いのはこの元々の置き文がどこからでてきてどう伝わっていくかである。
発見されたのは頼朝の乳母家の一つの山内家から書物を没収した際にでてきて、頼朝は手に入れたが4代の孫であったために使用されないまま将軍家に残り、頼朝没後に尼御台(いわゆる尼将軍政子)がこれを見つけて三代将軍実朝の死後に足利義氏に託したものとこの物語では記述している。

ありそうな話にちゃんと作るのが、この作者の構成のうまいところだと感じる。義氏はその後子孫に河内源氏嫡流の義務として幕府が行き詰ったときには自ら天下をとることを子孫に伝えたわけである。              
    モンゴルの交渉の有り方              
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